最後、三つめは「耳嚢」巻十より「猫忠死の事」。
2つ目にご紹介した「奇説著聞集」の大阪の話ととてもよく似ていて興味深いです。

「耳嚢」根岸鎮衛著

巻十 猫忠死の事

安永・天明の頃なるよし、大坂農人橋に河内屋惣兵衛といへる町人ありしが、壱人の娘容儀も宜、父母も寵愛大方ならず。
然るに惣兵衛方に年久敷飼置る猫あり、ぶち猫のよし。彼娘も寵愛はなしぬれど、右の娘に附まとひ片時も不立離、定住坐臥、厠の往来等も附まとふ故後々は、「彼娘は猫の見入たるなるべし」と近辺にも申成し、縁組等を世話いたし候ても、「猫の見入し娘なり」とて断るも多かりければ、両親も物うき事におもひ、暫く放れ候場所へ追放しても間なく立帰りける。「猫はおそろしきもの也。殊に親の代より数年飼置けるものなれど、打殺し捨るにしかじ」と内談極ければ、彼猫行衛なくなりし故、「さればこそ」と、皆家祈祷其外魔よけの札等をもらひいと慎みけるに、或夜惣兵衛の夢に彼猫枕元に来りうづくまり居ける故、「爾は何故身を退、又来りけるや」と尋ければ、猫の曰、「我等娘子を見入たるとて殺されんとある故、身をかくし候。能く考へても見給へ、我等此家先代より養はれて凡四拾年程厚恩を蒙りたるに、何ぞ主人の為めあしき事なすべきや。我等娘子の側を放れざるは、此家に年を経し妖鼠あり、彼れ娘子を見入て近付んとする故我等防ぎの為めに聊も不離附守る也。勿論鼠を可制は猫の当前ながら、中々右鼠我壱人の制に及びがたし。通途の猫は弐、三疋にても制する事なりがたし。爰に一つの法あり。島の内河内屋市兵衛方に虎猫の一物あり。是を借て我等と倶に制せば事成べし」と申て、行方不知なりぬ。妻なる者も同じ夢見しと夫婦語り合て驚きけれ共、「夢を強て可用にもあらず」と其日は暮ぬるに、其夜も彼猫来りて、「疑ひ給ふ事なかれ。彼猫さへ借給はば災除くべし」と語ると見し故、彼島の内へ至り、料理茶屋体の市兵衛方へ立寄見しに、庭の辺椽頬に抜群のとら猫有りける故、亭主に逢ひて密に口留めして右の事物語ければ、「右猫は年久敷飼置しが、一物なるや其事は不知」。せちに需ければ承知にて貸しける故、あけの日右猫を取に遣しけるが、彼もぶち猫より通じありしや、いなまずして来りければ、色々馳走などなしけるに、かの班猫も何地よりか帰りて虎猫と寄合たる様子、人間の友達咄合が如し。さて其夜も又々亭主夫婦が夢に彼のぶち猫来り申けるは、「明後日彼鼠を可制。日暮れば我と虎猫を二階へ上置給へ」と約束しける故、其意に任せ翌々日は両猫に馳走の食を与へ、さて夜に入二階へ上置しに、夜四つ頃にも可有之哉、二階の騒動すさまじく暫しが間は震動などする如く成りしが、九つにも至る頃少し静まりける故、誰彼と論じて、亭主先に立上りしに、猫にもまさる大鼠の咽ぶえへぶち猫喰ひ付たりしが、鼠に脳を掻破られ、鼠と倶に死ぬ。彼島の内の虎猫も鼠の脊にまさりけるが、気力疲れたるや厩に死に至らんとせしを、色々療養して虎猫は助かりける故、厚く礼を述て市兵衛方へ帰しぬ。ぶち猫は其忠心を感じて厚く葬、一基の主となしぬと、在番中聞しと、大御番勤し某物語りぬ。

【現代語訳】

安永・天明の頃のこと。大坂農人橋の河内屋惣兵衛という町人に、器量の良い一人娘がおり、両親はこの娘をたいへん可愛がっていた。
また、惣兵衛のところには長年飼っているぶち猫もいて、娘もこの猫をとても可愛がっていたのだが、猫はこの娘にいつも付きまとって一時も離れない。座っているときも寝るときも、はては厠にまでも付きまとうので、「この娘は猫に見入られたにちがいない」と近辺の噂となり、縁談などの話があっても「この娘は猫に見入られた娘だ」と断られることも多く、両親は困って(猫を)しばらく離れた場所に追い払ったりしたのだがすぐに帰ってきてしまう。
「猫とはおそろしいものだ。親の代から何年も飼ってきたものではあるけれど、打ち殺して捨ててしまうしかあるまい。」と内々で相談がまとまったが、その猫はとたんに行方をくらましたので、「いまこそ」と祈祷し魔除けのお札などもらって身を慎んでいたところ、ある夜惣兵衛が夢でその猫が枕元にうずくまっているのを見て、「おまえはどうして身を隠し、また現れたのか」と尋ねると、猫は「私は娘を見入ったとして殺されそうになったので身を隠したのだ。よくお考えなさい、この家で先代の頃から養われておよそ四十年ほど厚恩を受けたのに、どうして主人の迷惑になるようなことをするだろうか。私が娘の側を離れなかったのは、この家に年を重ねた妖鼠がいて、そいつが娘を見入り、近づこうとしたのでそれを防ぐために常に離れず付いて守っていたのだ。もちろん、鼠を制することは猫としては当然なのだが、なかなかその鼠は手ごわく、私ひとりではかなわない。いや、そこらの猫では二、三匹でもかなわないのではないか。だがひとつだけ方法がある。島の内河内屋市兵衛のところにみごとなトラ猫がいる。こいつを借りてきて私と一緒でかかればなんとかなるだろう。」
と言って姿を消した。
妻もまた同じ夢を見たらしく、夫婦でその話をして驚いていたが、「しょせん夢のことだから」とその日は何もせず夜になった。するとその夜もまたあの猫が現れて「疑わず信じなさい。あの猫さえ借りられれば災いを除いてみせる」と話すのを見て、ようやく主人は島の内へと向かい、料理茶屋らしき市兵衛のところへ立ち寄ってみた。すると、庭の縁に実にみごとなトラ猫がいたので、さっそく亭主に会い、ひそかに夢の話をしたところ、「この猫はすいぶん長年飼ってはいるが、はたしてそんな大物なのかどうかは分からん」それでも懇願して頼むと承知して貸してくれたので、次の日猫を受取りに行かせたところ、ぶち猫との間ですっかり話がついていたのか、拒むことなく来てくれた。いろいろとご馳走などしていたところ、ぶち猫もどこからか帰って来てトラ猫に近づき親しげにしている様子は、まるで人間が友達同士で話し合っているようだった。

さてその夜もまた亭主夫婦の夢にあのぶち猫が現れてこう言った。「明後日、あの鼠をやっつけよう。日が暮れたら私とトラ猫を二階へ上げてもらいたい。」と約束してくれたので、言われたとおり翌々日は二匹の猫にご馳走を与え、夜になったところで二階に上げてやった。
すると夜の十時頃、信じられないくらいの騒ぎが二階で起こり、しばらく騒音が鳴り響いていたが、深夜0時になろうかという頃になってようやく静かになったので、亭主が様子を見に行くと、猫よりも大きいかと思われる大鼠の喉ぶえにぶち猫が食いつき、鼠に頭を掻き破られて相討ちで死んでいた。あの島の内のトラ猫も大きさでは鼠に負けないくらいであったが、気力も尽き果てたのかいまにも死にそうだったのを、いろいろ手厚く看護したところトラ猫はなんとか一命をとりとめたので、厚く礼を言って市兵衛に返した。
ぶち猫はその忠義心が理解され、猫のための墓まで建てられ手厚く葬られたという。
この話は、大御番を務めた某氏がその在番中に聞いたものである。


以上です。「その2」の話ととてもよく似ていましたよね。
文献としての成立は、耳嚢が1737‐1815年、「その2」の奇説著聞集が文政12年(1829)ですから、明らかにこちらの耳嚢の話が先ということになります。ですが、奇説著聞集の著者・大蔵永常が耳嚢を直接のソースとして書いたのかどうかまでは分かりません。
ここで取り上げた三つの猫の恩返し話をそれぞれ比較して、物語の変遷の具合を調べてみるのも面白いかもしれませんね。